DRAMA Vol.18 光と影

プロ化に向けて、選手の入れ替えが1992年7月に行われた。

もちろん、その以前から日産や日本鋼管、ヤンマーから優れた選手を迎え入れてはいた。しかし、公式戦(ナビスコカップ)を乗り切るためにも、またリーグ開幕のためにも、もっと補強をしておく必要があった。

移籍交渉が開始される。監督には、実力や経験、そして茨城県出身であることなど、どうしてもホンダの宮本征勝氏が必要であった。選手も黒崎選手、長谷川選手、内藤選手、本田選手、入井選手、千葉選手とホンダの選手が中心となっている。マネージャーの福島昌広氏までがホンダから移籍している。

これは、ホンダがプロリーグへ初年度からの参加を見合わせたということが理由のひとつとしてあるが、やはり若くてレベルの高い選手がホンダには多かったということだ。 もちろん、監督や選手と個別に交渉を開始する以前に、ホンダの会社に対して交渉を行っている。

ホンダとしても、プロ化をまったく断念したわけではなかった。ここで主力選手が移籍し、チームの戦力が落ちることは当分の間プロリーグ参加への道が閉ざされてしまうことにもつながる。

「優秀な選手たちがプロでプレーすることを希望するのであれば、少しでも早く最良のステージで活躍させてやろう、ということで社内の意見は一致しました」

当時のホンダ・サッカー部長森岡幸生氏(現本田技研工業株式会社浜松製作所管理事務室長)が語る。

「複数のチームから大勢の選手たちを指名してもらっていましたが、今までチームメイトとして頑張ってくれた者たちがバラバラになるのは忍び難い。移籍をさせるなら、まとまってしっかりとした受け入れを考えてもらえるところにしよう、ということになった。地域ぐるみの構想の下に会社・チームの基本思想がすばらしく、しかも最も熱心に誘っていただいたアントラーズさんにお願いすることで大筋が決まり、あとは、選手と個々に話し合いをしていただきました。」

ホンダからは、大きな貢献を受けた。

「ホンダさんの理解がなかったら、ナビスコカップもあの成績(ベスト4進出)は残せなかったと思う。さまざまなチーム、とりわけホンダさんのサポートには、本当に感謝している(平野氏)」

主力の選手を欠いたホンダのチームは、その後日本リーグ1部から2部へと降格してゆく。

「宮本監督がホンダを骨抜きにした」

そう陰口をたたかれる。まったくそんなことはない。プレーを通じて夢を実現するために、選手自身が選んだ決断であった。また、ホンダにしても、選手たちの将来を考えた最良の選択であったと考えたい。

選手の夢、ホンダの夢を鹿島アントラーズが引き継いだと考えたら考え過ぎ、あるいは自惚れだろうか。 クールな見方をすれば、“弱肉強食”それがプロである。明と暗、光と影をはっきりわけながらでも突き進んでゆかなければいけない世界である。

そういった意味では、鹿島アントラーズ内部でも光と影はある。今まで活躍していた選手たちがトップチームからこぼれてゆく。ある者はファームチームに、ある者は球団のフロントに、そしてある者はサッカー界から去ってゆく。

光と影を飲み込んで、鹿島アントラーズはさらに強くなろうとしている。