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2020年10月26日(月)

FREAKS vol. 301(2020/10)より 〜LAST MESSAGE〜

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アントラーズでプロのキャリアをスタートした内田篤人が、
32歳で現役を引退することを決断した。
2018年にアントラーズに戻ってきてから、
彼は何を残し、何を伝えようとしていたのだろうか。

高校を卒業した2006年にアントラーズに加入したときは、線も細く、初々しかった少年は、尊敬する多くの先輩たちのなかでもまれ、逞しく成長していった。そして、アントラーズから羽ばたき、世界の最高峰で栄光も苦悩も味わい、さらに人間としての年輪を増していった。
18年にドイツから再びアントラーズに戻ってきた内田篤人は、クラブに何を残し、何を伝えようとしたのか。32歳で現役引退を決意した内田が送るメッセージに耳を傾け、しっかりと心に刻みたい。

先輩たちがやってきたこと
それが僕にはできない

──現役を引退することは、いつごろから考えていたのでしょうか?
「昨シーズンが終わったときに、もう契約はしてもらえないかなと少し思っていたところがあったなかで、もう1年だけチャンスをもらえたなという印象でした。プロチームの鈴木FD(フットボールダイレクター)に話をしたのは、(8月12日の)ルヴァンカップの清水戦のあと。(試合直後に)そのまま話しに行きました。チームの助けになっていないということと、このまま契約を解除して引退させてほしいと伝えました」

──引退を決意したその清水戦では、自分のなかに決定的な〝何か〟があったということなのでしょうか?
「清水戦でどうこうというよりは、その前の試合(J1第9節対鳥栖戦)でベンチに入れてもらったときに、ピッチレベルで試合を見て、残り10分、20分のプレーを真横で見ながら、『自分はこの時間帯にこの強度に耐えるだけの体がないな』と思ったなかで迎えた清水戦でした。試合は、前半はほとんど抑えながらプレーしていたのですが、後半はやっぱり持たないし、細かいことを言えば、危ないところがわかっているのに、そのスペースに行けなくなったり、自分が行かなきゃいけないポジションにスピードを持って行けなくなったり。そういうシーンが自分のなかで数多くあって、あの試合がやっぱり自分のなかで『辞めなきゃだめだ』という後押しになったのかもしれません」

──本来の自分のプレーができなくなったことで、引退を決断したとのことですが、サッカー選手として、多くの先輩たちが築いてきたアントラーズを自分が支えたいという思いもあったのではないかと思います。
「先輩たちがピッチでやるべきことをやってきたのを見てきました。満男さん(小笠原TA)、ヤナギさん(柳沢ユースコーチ)、剛さん(大岩前監督)、浩二さん(中田C.R.O)、僕が入った年は、本田(泰人)さんもいましたが、アントラーズの選手らしい振る舞い、立ち姿を感じるものがありました。それが僕にはできていないな、と。練習中もケガをしないように少し抑えながら、ゲームでも少し抑えながらのプレーが続くなかで、例えば亮太(永木選手)とか慶(小泉選手)とか聖真(土居選手)とかが、練習を100%でやっている。その隣に立つのは失礼だなと思うようになりました。アントラーズの選手として、けじめはつけなければいけないなと」

──現役を引退することを事前に伝えたチームメートはいたのでしょうか?
「前もって何人かに伝えておかなければと思っていたうちの一人がソガさん(曽ケ端選手)でした。伝えたときは『お前はまだやれるだろ』って、一番しつこく言ってきたのもソガさんでした。あの人が一番長くやっているので反論できないんですけど、『早いなあ』とか『もったいないなあ』と、一番さみしそうだったのもソガさんでした。満男さんが辞め、黄金世代と呼ばれていた選手たちがどんどん辞めていくなかで、アントラーズの象徴的な選手としてソガさんが残ってくれている。練習を見ても、試合に出ている若い選手よりも後ろにいてくれる安心感、存在感というのは感じるものがあります」

──他のチームメートには?
「事前に伝える人を、自分のなかである程度チョイスしました。言ってプラスになる選手と、言わないほうがいいなと思う選手もいたので、(三竿)健斗には言いませんでした。彼は感情が表に出るタイプ。キャプテンシーと責任感が強いので、先に言うと調子が狂ってしまうのではないかと思って、彼には言いませんでした。あと、亮太にはビックリさせてやろうと思って、あえて言いませんでした(笑)」

──現役として最後の試合となった8月23日のG大阪戦(J1第12節)では、広瀬選手のアクシデントもあり、急きょ、前半16分からピッチに立ちました。
「実は、試合前に陸斗(広瀬選手)に『絶対にケガをするな』と話していたんです。『3-0で、残り15分で(出番を)持ってこい』と言っていたんですが、やってくれましたね。空気を読んだというか。そのとき、僕というチョイスもあったし、亮太というチョイスもあったと思うんです。そのなかで、監督が僕の隣に座って、『今日の試合の責任は全部、俺が持つから思い切りプレーしてこい!』と言っていただいたので準備しました。僕が途中から入って、僕がケガをして、交代枠をもう1枚使うことだけは絶対に避けたかったので、そこだけは気を使いましたね」

──そのG大阪戦で、試合終了の笛が鳴った瞬間に湧き上がってきた気持ちとはどのようなものでしたか?
「終わったなという印象が強かったです。それと同時にテレビに抜かれるなと思ったのですぐに(いろいろな感情を)こらえました。こういう状況なのでチームメートはやりにくかったはず。申し訳ないなと思いました。余計な力みも入ってしまったんじゃないかなと思っています」

セーブしながらプレーするのは
勝つ、負けるよりもつらかった

──32歳で現役を引退することにさみしさはなかったですか?
「例えば、環境を変えるために移籍をするのは選択肢として、あったとは思いますが、アントラーズ以外でやる選択肢はなかったので、ここで決断しました」

──そこに後悔はありませんでしたか?
「後悔は考えればありますが、考えないようにしています」

──スポーツの世界に〝たられば〟はないかと思いますが、ケガをする前には、どんなサッカー人生を描いていましたか?
「そこは、あまり考えたことがないですね。膝と付き合ってサッカーを続けてきたので、ケガをしなかったらということはまったく考えたことがない。無理をしてここまで来られたというのが、自分のなかでは大きくて。無理をしなかったらシャルケ04にも行けなかったと思いますし、アントラーズでもこういうふうに送り出してもらえなかったと思う。だから、これが自分の限界だったと思います」

──ここまでケガをするたびにリハビリを続けてこられた理由は?
「ある程度、感情を入れずにリハビリをしていたときもありましたけど、応援してくださる皆さんもいますし、ただ単に仕事でもありました。契約を全うしたいという気持ちがすごく強かったです」

──自分を追い込み続けられた理由は?
「次の目標というか、夢が……試合を重ねていくなかで、年齢を重ねていくなかで出てきていました。それに向けてやっていかなければいけない段階が、自分のなかである程度、決まっていたからですかね。だから、目標を持つことが大事なのかなと思います」

──その目標とは何だったのでしょうか?
「例えばW杯とか、例えば優勝とか。そのためには、この年齢でここに到達しておかなければならないとか。計算というか、計画は必要なことなんじゃないかと思っています」

──ここまでボロボロになりながら、頑張ってきてくれた右膝に感情があるとしたら、どんな言葉をかけてあげたいですか。
「よく頑張ったんじゃないかなと。ほぼ潰れる覚悟でW杯やCL(UEFAチャンピオンズリーグ)を戦ってきましたから。自分が選択したことですし、本当にいろんな人に治してもらって、強くしてもらった膝なので、いい思い出がいっぱいあります」

──今は、そうしたリハビリなどから解放されるという気持ちが強いですか?
「正直、やっと終われるなという気持ちのほうが強いです。自分をセーブしながらプレーしてきたのは、変な話、試合に出る、出ないとか、試合に勝つ、負けるというよりも自分のなかではつらかったです」

──ご自身も小笠原TAの引退会見に同席されましたが、自身の引退会見に、土居選手が立ち会っていました。そういった姿を見てくれる後輩がいることはどう感じますか?
「聖真とは毎日、クラブハウスのお風呂に一緒に入るんですが、試合前日のお風呂で静かだなあと思っていたら隣で泣いていました。彼はアントラーズのユース育ち。ユースから大事にされて、いろんなものを見て、このエンブレムを着けてプレーしてくれている。いろいろな思いがあると思いますし、これからいろいろなものを背負ってもらわないといけない部分がたくさんあります。もちろんピッチ外での仕事も、年齢的にはやってもらいたいと思います。G大阪戦を見ていても、やはり土居聖真がいないとバランスが取れなかったり、チームのことを考えてプレーしてくれている印象があります。きっとこれから、もっと、もっと活躍してくれるんじゃないかなと思っています」

アントラーズではプロとしての
振る舞い、姿勢を教わった

──18年にドイツからアントラーズへ戻ってきましたが、そこで示したかったこととは何だったのでしょうか?
「何だろう……やっぱり、プレーで示したかったですね。右サイドに内田がいれば、何とかなるだろうという。やっぱり内田は違うなというところを見せたかったんですけど、やっぱり、それがうまくできなかった。だから、もしかしたら、内田とか、ヨーロッパって、こんなもんなのかと思っている選手もいるのかもしれない。でも、実際はこんなものじゃない。本当はそれを示したかったし、伝えたかった。昔はそういうレベルに自分もいたと思うんですけど、やっぱり若い選手たちにそれを見せられないという現実がありました」

──高校を卒業した06年にアントラーズに加入して、いきなり開幕戦で先発出場。その後、一気にチームの主力へと成長していきましたが、そのなかでアントラーズがもたらしてくれたものとは何だったのでしょうか?
「サッカーの基本や戦術もそうですけど、やっぱり、(パウロ・)アウトゥオリやオズワルド(・オリヴェイラ)、もちろんジーコTDもそうなんですけど、プロとしてどう振る舞えばいいのか、どういう日常生活を送ればいいのかといったプロサッカー選手としての姿勢を勉強させてもらいました。あとは、練習に取り組む姿勢もそうですよね。アントラーズは常に勝たなければいけないと、よく言われますけど、それがどういうことなのかも教わった気がします。それがアントラーズで感じたことですね」

──要するに、プロとは何かということを教わったと?
「それはすべての仕事に通じることでもあると思うんですよね。『フリークス』を作る仕事においてもそうだし、ピッチを今、整備してくれている人もそう。僕にとって、今まではそれがサッカーをプレーするということだった。アントラーズは、そういう一人ひとりのプロが集まった集団なのではないかと思います。それぞれの分野でかかわる人たちが、お互いにリスペクトし合って、一つのチームができあがってくると、やっぱり強くなるなと感じていましたね」

──なるほど。
「プロって何なんだろう、その仕事に対するプロフェッショナルとは何だろうというのを考えさせられたし、学びました。これはもう、サッカー選手ではない人にも通じることだと思うので、自分がサッカー選手を辞めたあとも、きっと役に立つんじゃないかと思います」

──以前、アントラーズでプレーするのは、他でプレーするのとは、少し違うと言っていましたが、何がそう思わせるのでしょうか。
「他の日本のクラブでプレーしたことがないので、いまいちはっきりと違いはわからないんですけど、アントラーズに移籍してきた選手が言うには、空気というか厳しさは、他のチームとは全然違うらしい。そこで自分が先輩たちから感じてきたものを次に残せないなと。それを残すことが、僕の本当の仕事だったんですけど、それができていないなと思いました。(引退を決めたのも)戦力的にチームにとってプラスになっていないと思ったからなんです」

──それでいうと、今シーズンからザーゴ監督がチームを率いていますが、そのチームで過ごしてきて、今のチームに、選手たちに必要なものをどう見ていましたか?
「チームが求めているものと監督が求めているものは、必ずしもすべてが一緒じゃないかもしれない。そうした状況を踏まえて、選手の立場としては、監督がどうであれ、チームの状況がどうであれ、勝ち点3をもたらせるような実力がある、苦しい状況でも活躍できる、というのが真の力を持つ選手じゃないかと思います。それが簡単ではないことは、十分にわかっていますけどね。でも、例えばですけど、代表に行って監督が違ったら、戦術が違ったら、試合に出られないのか、活躍できないのかという話になってしまう。だから、やっぱりどんな状況でも、チームを勝たせられる、活躍できることが、その選手の実力を示すことにつながるのではないかと思います」

──そうした選手が多く在籍していたのが、アントラーズでもあったと?
「今まではそうでした。だから、若い選手たちがこれからそうなっていかなければいけないし、他のクラブから来た選手もそうなっていってほしい。ザーゴ監督も、日本のサッカーを理解している段階でもあると思うので、そこは時間がかかるだろうし、そんなに簡単なことではないとも思っています」

──そうした言葉を聞くと、何が必要で何が足りないということすら、現時点では時期尚早という気がしてきますね。
「そうだと思います。ただ、繰り返しになってしまうけど、どんな状況だろうが自分のパフォーマンスを維持して活躍できるのが、本当の意味で力を持つ選手といえるのではないかという気がします」

やり方に正解はない
勝ったやり方こそが正解

──アントラーズでは、高校を卒業した06年から10年まで、さらにドイツから戻ってきた18年から今季までプレーしました。思い出に残っている試合はありますか?
「やっぱり3連覇ですね。そのなかでも3連覇したときのアウェイでの浦和戦(09年J1第34節)ですかね。興梠(慎三)さんにクロスを上げた試合です。思い出せばもっと印象的な試合はあると思いますけど。ただ、あのときの11人や在籍していた選手は、Jリーグ史上においても最高なんじゃないかと、個人的には思っています」

──その3連覇を達成したときのことで印象に残っていることはありますか?
「一人ひとりがとにかく成熟していましたよね。チームとしてもそうだけど、年齢的にも、個々がサッカーを知り尽くしたタイミングがばっちり合っていた。そこには、ピークを合わせて持ってきたフロントの力もあると思います。それをもう1回、もう1回という形で、毎年タイトルを獲っていましたからね。やっぱり、そこはすごいなと思います。試合をやっていても負ける気がしなかったですからね」

──その時代も含めて、アントラーズが培ってきたものを継承していくには、何が大切になってくると思いますか?
「年齢が上の選手たちの態度だと思います」

──ベテランといわれる選手たちがどういった姿勢や行動を示せるかが大切になると?
「別に先輩たちのマネをしろとは言わないですけど、自分がアントラーズに必要だなと思ったことをやるべきだと思います。それはきっと、ソガさんを見ていればわかるんじゃないかと思います。自分はありがたいことに、若いときにたくさんのすばらしい人たちに巡り会えた。そういう先輩たちがいっぱいいたことに感謝していますね」

──そういう意味では、先ほどの話題に戻ってしまいますが、ドイツから戻ってきたあとは、伝えるといったところも意識はしていましたか?
「もちろん。それが仕事というか、もしかしたらタイトルを獲ることよりも大事なことなのではないかと思っていました。だから、それができないなら選手を辞める。辞めるというか辞めたほうがいいと考えたんです」

──そのうえで、チームメートたちにアドバイスを送るとすれば?
「ない、かな(笑)。ただ、勝つために何をすればいいかを考えてほしいですね。そこに正解なんてないんです。勝てばいいわけだから。だから、勝ったやり方が正解。それを考えてほしいなと思います。何より、勝たなければ、個人も評価されないわけですから」

──これまでのキャリアを振り返って、最も喜びを感じた瞬間はありますか?
「うーん。なんだろう。やっぱり3連覇したときになりますかね」

──一方で、最も自分自身が葛藤した時期を挙げるとすればいつになりますか?
「プロ2年目から4年目の時期ですかね。試合中に吐き気をもよおしながらも、練習や試合をしていて。自分自身でも難しいなと思っていた時期ですからね」

──右膝をケガした時期ではないんですね。
「みんな、右膝のことを言うんですけど、自分としては違うんですよね。(右膝の)強度という点では確かに弱くなってしまったんですけど、痛さというのは別になかったので。僕が感じていたのは、運動能力が落ちたなということなんです。だから、基本動作なんですよね。走る、止まる、ターンする、ジャンプする。そうした基本的な運動能力が、本当に落ちたなと感じたんです。そこは長い間、プレーできない時期があったから、ガクンってきたんだと思うんですけど」

またカシマスタジアムに来たい
どこかでみんなに会える

──新型コロナウイルス感染症の影響で、集客人数に上限はありましたが、現役最後の試合となったG大阪戦にも多くのサポーターが見に来てくれました。アントラーズのサポーターの応援は内田選手にとってどんな支えでしたか?
「アントラーズだけでなく、Jリーグ自体が、おじいちゃん、おばあちゃん、子どもを連れて来られる安全な環境だということが一つあります。海外だと、発煙筒が投げ込まれたり、警官が馬に乗って飛び出てくるシーンもよくあります。日本は安全で、そのうえで力強い声援があった。アントラーズでは、バスでスタジアムに入ってくるとき、試合前からモチベーションをアップさせてくれました。もちろんタイトル数が一番多いチームのサポーターだけあって、品格というか、そういうものもあったなと思っています」

──これまで支えてくれたサポーターにメッセージを送るとすれば?
「ドイツまで足を運んで応援してくれた日本人の方もいましたし、カシマスタジアムで背番号2を着て応援してくれた人もいました。僕がアントラーズに入るずっと前からアントラーズの応援をしてくれている人もいます。きっと、これからもアントラーズを応援してくれるであろう人もいます。このクラブは勝つためにフロント、チーム、選手が何をすればいいかをわかっているクラブです。今、置かれている状況は、変わることも必要だと思います。そのなかで勝ち点3を取らなきゃいけないことは、選手たちも本当にすごくよくわかっています。ただ、あと一歩、二歩のところまで来ているんじゃないかという印象はあります。だから、そこは経験のある選手たちがやってくれるんじゃないかと思っています」

──スタジアムでのあいさつでも、子どもたちへのメッセージを送っていましたが、プロとして約15年間、サッカーをしてきて、改めて子どもたちに伝えたいことはありますか。
「プロになれない選手、子どもたちがほとんどだと思うんです。そこで、なれる選手となれない選手は、何が違うのかなと考えたとき、多少の運も半分くらいはあると思いますが、『自分は努力してるな』と思ったら、きっと、それは違うんじゃないかなと思っています。サッカーが好きで、その延長線上でプロになれたというのが自然だと思うんです。プロになるために頑張るぞ、頑張るぞという努力より、サッカーが好きで、好きで、結果的にプロになれちゃったというほうが、僕はしっくりくるかなと思います」

──G大阪戦を終えたあと、スピーチの最後に「また会いましょう」と話していましたが、そこにはどういう思いがあったのですか?
「一人のファンとして、また、カシマスタジアムに来たいと思っていますし、サッカーの道で生きたいなとも思っています。まあサッカーを辞めるだけですからね。たぶんどこかでまた会えると思っています」

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