折れない心、立ち向かう勇気
FACE 樋口 雄太
アントラーズ戦士たちの軌跡
特集
樋口 雄太
アントラーズ戦士たちの軌跡をたどる新連載がスタート。
第1回でクローズアップする樋口雄太はフットボールに出会い、キャリアを駆け上がるたびに壁にぶつかってきた。
そのたびに現実から目を背けることなく、立ち向かうことで乗り越えてきた。
アントラーズに加入して2年目を迎える今季、背番号14は自分の殻を破ろうとしている。
歩いてきた自分の足跡を振り返るように、樋口雄太は言葉を絞り出した。
「現実から目を背けず、逃げなかったから、今日の自分があると思っています。一心に、ひたすらに、どうすれば試合に出られるかを考えてやってきました。それは今も── 」
絶望と表現した瞬間も成長に必要な糧だった
1996年、佐賀県の三養基郡に生まれた。
「自然があふれていて、畑がたくさんあります。そこにぽつんと公園があったり。どこか鹿嶋に雰囲気は似ているかもしれない」
そう言って樋口は時間を巻き戻す。
6歳になる2002年に、自国で開催されたW杯で、ブラジル代表のFWロナウドに憧れた少年は、地元の三根FCで初めてフットボールに触れた。同級生は野球もやっていたが、他に目をくれることはなかった。
とある大会で鳥栖と対戦する機会があった。彼らの強さを体感すると、「自分もそのなかでプレーしてみたい」と、セレクションを受けた。見事合格し、小学3年で鳥栖U─12に加入した。
「当時のポジションはFWで、(相手を)全員抜いてシュートを決めるようなこともありました。とにかく点を取るのが楽しかった」
初めて壁にぶつかったのは、鳥栖U─15に昇格した中学1年だった。
「先輩たちとは身長も体格も差があり、試合に出られずに悩み、苦労しました。それでも追いつこうと努力した結果、中学2年になって出番が増え、少しずつ自信もついていきました」
出場機会に恵まれなかった期間も、腐ることなく、現状に目を向け続けた。
「調子が悪いときが自分の実力だと思え」
鳥栖U─15時代の監督が授けてくれた言葉は指標になり、今も心根に息づいている。
“プロ”を強く意識するようになったのは、鳥栖U─18に昇格した高校1年の冬だった。当時、鳥栖のアカデミーとしては異例の出来事だったというが、トップチームの練習に初めて参加する機会を得たのである。
「鳥栖のスクールに通い始めたときから、トップチームの試合は毎回のように見に行っていて、自分もそのなかでプレーできたら楽しいだろうなと思っていた。だから、練習参加したときは、実際にそのレベルを肌で感じて、自分もその舞台で活躍したいと思うようになりました」
驚いたのは当時トップチームを指揮していた尹晶煥監督の存在だった。ユース生である自分に声をかけてくれただけでなく、一緒にボール回しもしてくれた。何より選手の誰よりも、監督が一番、ボールタッチが正確で繊細だった。
「尹さんは、ワンタッチやツータッチなど制限のあるポゼッションの練習も、選手に交ざってやっていたのですが、一番うまかった。技術の高さに衝撃を受けました」
また、ほどなくして樋口はU─17日本代表に選ばれるようになった。
「(代表に)選ばれたことはうれしかったですが、まったく自分を出せなかったんです。頻繁に代表に呼ばれている選手と自分の力の差を感じて、もっと成長しなければいけないと思えたことで、意識も変わり始めました」
トップチームの練習に参加する機会も得た。世代別の日本代表にも選ばれた。プロになることは憧れや夢ではなく、具体的な目標に変わっていた。
ところが、だった。自身がユース年代で「最も悔しかった経験」として挙げたプリンスリーグ九州2部への降格が決まり、1年が終わろうかという時期だった。
鳥栖U─18の竹元義幸監督とトップチームの強化担当に呼ばれると、告げられた。
「トップに昇格することはできない」
樋口はそれを「絶望」と表現する。
「チームと面談するまでは、トップに昇格できると思っていましたし、自分がトップで活躍する想像しかしていなかった。だから、昇格できないと言われたときは、本当に絶望しました。ただ、今振り返って思うのは、あのままプロになっていたとしたら、おそらく試合にも出られず、プロサッカー選手としてのキャリアをすぐに終えていたのではないかと思います。それくらい当時の自分は、根拠のない自信しか持ち合わせていなかった」