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 キム ミンテがフットボールを始めたのは、2002年のワールドカップがきっかけだった。この歴史的イベントでフットボールの魅力に取りつかれたミンテ少年は、当時通っていた小学校にサッカー部がなかったため、サッカー部のある小学校へ転校。家から毎日通学するには遠かったため、寮に入り、週末に試合を終えると自宅に帰って家族と過ごす日々を送った。

 転校した先の部活動では、ボールを扱う基礎練習を、ドリブルなど20種類ほど教わった。以降、その基礎練習はミンテの日課となった。

「練習を見ていて父が、『基礎は大切だから』と言って、僕が寮から戻るたびに近所の学校のグラウンドに行って、おさらいをするようになった。反復練習ばかりで、最初は本当に嫌だった。しかも父は経験がないので、僕が練習するのを横に立ってじっと見ているだけだったーー」

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 おかげでこのころの思い出といえば、父の前で練習したことばかり。夏休みもずっとトレーニングキャンプや練習ばかりで、フットボール以外の思い出はほとんどないという。「マジでダルかった」。そう日本語でしみじみ振り返るほど、父の練習は長く、こなす量も多かった。

 ただ、そんな地道な反復練習は、ミンテを着実に成長させた。誰よりも数多く、真摯に繰り返した基礎練習。それが自らを支える揺るぎない自信になった。そして、大学でポジションを確保すると、韓国や日本のクラブからオファーが届くようになった。

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 しかし、実のところ、ミンテはこのとき、日本に行きたくはなかった。当時、韓国の有望選手が、何人もJリーグのチームに加入したが、その8割、9割は力を出せていないように見えたからだ。だから、ミンテにとって、日本行きは不安でしかなかった。

 ただ、「練習参加だけでもしてみたらどうだ?」と大学の監督に背中を押されたため、しぶしぶ大学3年の春、ベガルタ仙台の練習に3週間ほど参加した。そこで心が一転した。

「Jリーグのレベルの高さ。そして独特の細やかさなプレーやこだわりに惹かれた。僕は体のサイズとパワー、スピードがある。これに緻密な技術と判断の速さが加われば、自分もさらに成長できる。より上のレベルを目指せると思った」

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 そうして、Jリーグへたどり着いたミンテは、着実に成長を続けた。仙台で2年間プレーした後、札幌で4シーズン半を過ごし、日本で家庭を築いた。公私ともに順風満帆な生活を送り、昨季は名古屋へ期限付き移籍。そして、今季からアントラーズへ加わった。

「『常に成長を続けること』、『楽な道を選ばないこと』を意識して、これまでやってきた。今年で29歳。フットボール人生の中間地点に差しかかったと感じている。この先はより結果にこだわり、タイトル獲得を目指したい」

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 しかし、その思いとは裏腹に、シーズン序盤から中盤にかけて、出場機会に恵まれない期間が長く続いた。自分の特長を最も発揮できると感じるCBではなく、ボランチで試合の終盤にクローザー的に起用される試合が多くなった。

 ただ、ミンテは「悔しい気持ちはもちろんある」と言いながらも、地道にトレーニングを続けた。苦境に立たされたときの忍耐強さは、ミンテの大きな武器の一つだ。

 そして、弛まぬ努力が実り、限られたチャンスをものにすると、徐々にプレータイムが増えていった。まだまだ本領発揮とはいかないが、アウェイ柏戦ではチームを勝利に導くゴールを奪取。存在感を強めている。

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「アントラーズには長年にわたり、日本を代表するCBが数多く在籍していた。歴代の選手と比べるとまだまだだけど、僕もそういった素晴らしいCBに少しでも近づき、アントラーズの一員としてタイトル獲得に貢献したい」

 岩政監督のもと、新しい競争が始まったばかり。キム ミンテは地道な基礎練習で培った確かな技術を武器に、CBのポジション争いにいどむ。

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