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 生まれ育った熊本県山鹿市は小さな町だった。幼稚園のときに近所のフットボールクラブに入った荒木遼太郎は、器用な子どもで、キックやドリブルなど教わったことはグングンと吸収した。小学校を卒業するまでチームでいつも1番。小学3年生で「将来はJリーガ―になる」と心に決め、自分でも周りの子どもたちよりもサッカーがうまいという自信があった。その自信のまま、ロアッソ熊本ジュニアユースのセレクションを受ける。すると、本来は3次まである試験に、1次であっさり合格することもできた。

 ところが、ジュニアユースに入ると、いきなりつまづいた。同学年のなかで、ひときわ小柄で体力がなかった少年は、「もっと走れ」とコーチに怒られてばかりで、練習のたびにへこまされた。当時を振り返り、荒木は「あまりにダメすぎて、もう考えることは一回忘れようと。深く考えず、ただフットボールを楽しもう。ひたすらフットボールをして、ずっとボールをに触っていようと思った」という。来る日も、来る日もまた怒られ、またへこむ。だが、次の練習では「今日はやってやる」と気持ちを切り替え、参加し続けた。その切り替えの早さが、成長を促したポイントであり、荒木の強みだ。

「練習で怒られたのも寝たら忘れる、という感じ。自分の性格なのかな。ジュニアユースの練習場まで家から親に送り迎えをしてもらっていて、高速を使っても50分ぐらいはかかる距離だった。本当に毎日大変だったと思う。そんな親の姿を見ると、“やらなきゃいけない“、”サッカーで成功しなきゃいけない“と思った。だから、自主練もずっと頑張れた。いい意味でプレッシャーになっていたと思う」

 中学卒業後、将来の選択肢を広げるために、ユースには昇格せず、東福岡高校への進学を選択した。高校1年では、世代別代表や国体に呼ばれたが、怪我が重なったこともあり、プレータイムは少なかった。レギュラーポジションを掴んだのは2年生になってからだった。

「高校時代はあまりいい思い出がない。高校2年から試合に出続けて、3年のときはキャプテンもしたけど、結果がついてこなかった。自分自身はいろいろな人と接して、チームをまとめようとするなかで成長できたと思うけど、結果としてはチームを引っ張ることができなかった」

 高校最後の選手権は、福岡県大会の決勝で敗れた。荒木は「悔しい高校生活になった」と振り返る。悔しさを糧に、プロフットボーラーとしての人生を踏み出すことになった。

 アントラーズの一員として初めて宮崎キャンプに参加した。合流初日の荒木は、プロのレベルの高さにかなり面喰らった様子だった。練習後、「ちょっとやばいなって思いました...」と苦笑いを浮かべ、「一人ひとり、技術もそうだけど、プレースピードがとても速い。パスも正確で、質がほんとに高い」と、恐縮した表情で語っていた。

「高校時代とプロの世界は全然違った。相手との間合いを空けてはいけないし、球際は本当に激しくいかないといけない。特に守備の部分では、全然足りていない」

 それでも、持ち前の切り替えの早さで、落ち込むことはなかった。自らの課題と向き合いながら、ひたむきにプレーを続けた。すると、日を追うごとに、みるみるプロのレベルに適応していく。練習試合やプレシーズンマッチで次々とゴールを決め、アピールに成功し、ついにはアントラーズで内田篤人以来となる高卒ルーキーの開幕戦リーグ初出場を果たした。

 その後も、「最初はわからなかったけど、先輩たちのアドバイスもあって、徐々に慣れてきている」と、周囲のサポートにも助けられ、練習試合でコンスタントに得点を取り続けた。公式戦の中断期間明けに一時は、3試合連続でベンチ外となったものの、ここ3試合では途中出場から得点に絡んでおり、目に見える結果をしっかりと残し続けている。

「何ごとにもチャレンジしていく年にしたい」

 2020年の目標を問われてそう答えていた。厳しいポジション争いを割って入るだけのポテンシャルは間違いなく持っている。これからどんな高みへ到達するのか。どんな景色を見せてくれるのか。荒木遼太郎、18歳。この男に期待せずにはいられない。

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