日没とともに静けさを取り戻した川崎の空。スタンドには明かりが灯され、数十分前まで満ちていた熱気が遠い過去のものであるかのような静寂に包まれていた。メインスタンド中央、ピッチを正面に望むミックスゾーン。ロッカールームを後にした若武者の足取りは重かった。軽いはずはなかった。「敗戦をどのように受け止めているか」。心中を察しながらも、報道陣が呼び止める。「チームとして」という枕詞を施しても、その問いは刃のような鋭さを帯びてしまう。あのプレーが持つ意味を考えれば、仕方のないことだった。
「今日の試合は誰が何と言っても、全て自分のせいだと思っています」。小田逸稀はそれでも、静かに言葉を紡ぎ始めた。「“ここから”という時に…」。決して目を逸らすことなく、あの一瞬と向き合っていた。
4月21日、等々力陸上競技場。屈辱としか表現し得ない90分にあって、アントラーズレッドが沸騰した瞬間。64分、永木亮太。反撃の狼煙を上げる一撃が、水色と黒を沈黙で覆ってみせた。だが、わずか数十秒後――。「14番の動きは見えていなかったです」。小田は絞り出すように言った。痛恨のボールロスト、重くのしかかる3失点目。「前半と後半の立ち上がりに2点を取られて、でも1点を取り返して“ここから”という時に…。中途半端なプレーをしてしまったので、反省しないといけないです」。下を向いてはいられない。上を、前を向かなければ――。うつむきながらも、その思いは痛いほど伝わってきた。
「キャンプで言われていたのは『もっとボールに行け、強く行け』ということです。それを常に意識してやっています」
アントラーズ加入2年目。極寒の宮崎で、背番号23は確かな成長の跡を示していた。ルーキーイヤーは天皇杯2試合に出場し、負傷離脱も経験。起伏と鍛錬の日々を経て、小田は持ち前の対人能力をさらに高めていた。力強いマッチアップを繰り返し、ボールを狩り取っていく。主戦場の左サイドだけでなく、右サイドをも務める万能性も武器となった。そして1月27日、キャンプを締めくくるトレーニングマッチ。徳島との一戦、隣には百戦錬磨のキャプテンがいた。絶えず、激しく指示が飛ぶ。時には身振りを交え、闘将が若武者を突き動かす。「逸稀!もっと行け!強く行け!」。その檄は期待の証左に他ならない。小田自身もまた、その思いに応えようと必死にボールを追っていた。
「アントラーズは勝たないといけないチームなので、試合に出場すれば、2年目であろうと関係なく勝利を求められると思います。勝たないとサポーターの方も納得してくれないと思うので、悔しさの方が強いです」
鹿嶋へ帰還し、迎えたシーズン開幕。内田や安西の加入で激化した定位置争いに身を置いて、小田は虎視眈々と出番を待ち続けた。そして3月13日、ついに訪れたプロ初先発の夜。シドニーFCとのホームゲーム、結果は1-1。勝ち切れなかった悔しさと、一歩目を刻んだ意味を噛み締めて、若武者は前を向いた。「連戦でまたチャンスはあると思うので、次は自分が試合に出て勝てるようにしたいです」。そして1ヶ月後、その言葉は現実のものとなった。4月14日、名古屋戦。J1初先発初出場、走り抜いた90分、そして掴み取った3ポイント――。「自分が試合に出て勝つことができれば、評価につながると思っていました。勝つことができて本当に良かったです」。誓いを果たし、初々しい笑顔を見せた。
「DFは経験が大事だと思っているので、昨季の1年間で経験したことを活かしたいと思っていたんです。今はいろいろな経験をさせてもらっているので、経験値も増えていっていると思います。もっと自信を持ってプレーできるように練習からやっていきたいです」
あの日のカシマスタジアムで、初勝利の喜びとともに語られた抱負――。「DFは経験が大事」という言葉は今、痛みを伴いながら自身へと突き付けられる。等々力での90分、そしてあのボールロストは忘れ得ぬ記憶となったに違いない。一瞬の迷いが命取りになる、残酷なプロの世界。だが、ミスをしないフットボーラーなどいない。先輩たちも皆、痛みと傷を負いながらキャリアを築き上げてきた。だからこそあの日、土居が「逸稀の責任じゃなくて、全員の責任です」と言えば、内田も呼応するように「アイツはよくやっているよ」と言葉を重ねていたのだ。全てはこれからだ。小田の物語は始まったばかりなのだから。
「若い選手がアントラーズを引っ張っていかないと、と思っています。ケガ人も出ていますけど、下から突き上げることが大事だと思うので」
鹿のエンブレムを纏う自覚と責任を胸に、小田は今日もひたむきにボールを追う。激しい競争に身を置き、切磋琢磨を繰り返す中で挫折を味わうことがあるかもしれない。実力者たちの戦列復帰によって、再びピッチから遠ざかる日々が訪れるかもしれない。それでも19歳は、全てを真っ直ぐに受け止めて、力強く進化の道のりを進んでいく。
そして、もう一つ――。「安部ちゃんはいつも自分のことを気にかけてくれるし、すごく仲が良いので、一緒にプレーしたいんです」。ともにアントラーズの門を叩き、ともに歩み、しかし異なる歩幅で進んできた同期の存在。ルーキーイヤーから燦然たる輝きを放ってきた安部と、地道に力を蓄えてきた自分――。「ライバル心がないことはないですけど、安部ちゃんが活躍すれば嬉しいですよ。今はケガで出られないので、“安部ちゃんのために”という思いもありますし」。小田はそう言って、穏やかな笑顔を見せていた。
背負った責任、味わった痛み、アントラーズのユニフォームを纏う誇り、仲間への思い――。全ての思いを糧にして、若きサイドバックは今夜も聖地のピッチをひた走る。「逸稀」コールを背に受けて、勝利だけを目指して疾走する。