DRAMA Vol.12 夢を追う者たち

陳情に行く。これが、最後のアクションプログラムである。これしか残された道はなかった。信用されていないなら、信用されるまで何度でも陳情に行こうということになった。

1990年の12月から1991年の1月にかけて、県の幹部や鹿島町の町長、鹿島製鉄所の幹部など、陳情団体の東京行が繰り返される。

「スタジアムは本当にできるのか」

「サッカーを浸透させるにしても、地元住民の人口が少ないのではないか」

「地元の人は応援にきてくれるのか」

「交通はどうする」

「日本リーグ2部の実力で大丈夫か」

行くたびに川淵氏から宿題が出される。行くたびに大きな仕事を背負う。

年末・年始の忙しい時期、真冬の寒いころ、鹿島と東京を何度も行き来する。それでも、あきらめることはできなかった。地域の願いは、果たさなければならなかった。

そのつど、竹内知事の親書を持って行ったり、近隣町村長や教育長、各団体からの賛同書、署名を集めたり、選手強化策やスタジアムの図面をもって説明に行ったり、鉄道や駐車場の整備計画などを持って行ったり、殺人的ともいえるスケジュールを、一つ一つこなしていった。

夢を追う者たちの情熱と根気の日々だ。

「最終的には汗の積み上げが、地域を活性化してゆくのだと思う」

そう語る五十里氏が、町長みずからも幾度となく協会へ足を運んだ。関係各所の賛同書をかき集め、提出したりもした。

「一企業のサポートだけではだめだ」

川淵氏にこういわれて鹿島町の隣、神栖町の中核企業、三菱油化(株)の本社を北畑氏が直談判に訪れたこともあった。1990年の暮れである。

「三菱グループでは独自にサッカーチームをもっているのに、なぜ住友を応援しなければならないのか」

北畑氏の協力要請に対して同社の幹部から答えが返ってくる。三菱では、埼玉県の浦和からフットボールクラブを押し出していたのだ。

北畑氏はあきらめず、地域の実情を訴え、再度協力要請を願い入れる。

「鹿島地域全体が衰退に向かうか、魅力のある町として発展するかの瀬戸際であり、いまは企業や財閥の話をしている場合ではない」

決定を下したのは、この会議を開いていた同社社長の故・吉田正樹氏であった。

「地域のために、協力させていただきましょう」

吉田氏のことばは、まさに地域の願いを象徴している。

「地域発展のために、他企業であろうと手を結んで、このプロジェクトを成功させましょう」

さらに多くの企業も仲間になった。

鹿島臨海工業地帯に操業する150社以上の企業群が「鹿島臨海工業地帯連絡協議会(略称、鹿工連)をつくっていた。ここの支援も得られた。つまり、地域活性化の考えが、150社以上の企業に賛同してもらえたのである。

さらに、鹿工連各社の労働組合や近隣町村の諸産業で働く人たちで組織されている「日本労働組合連合会茨城県連合鹿行地域協議会(組合員総数2万人以上)」からも支援を約束してもらえるなど、まさに地域全域、労使一体となってのサポート体制がここに実現したのだ。